野球の道は虹色に輝く@野球まとめ

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    タグ:野村克也


    鉄平(てっぺい、本名:土谷 鉄平〈つちや てっぺい〉、1982年12月27日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 2016年2月にプロ野球からの引退を発表してからは、東北楽天ゴールデンイーグルスの球団職員として、球団が運営する「楽天
    34キロバイト (4,387 語) - 2020年2月9日 (日) 14:23



    (出典 sp.rakuteneagles.jp)


    他球団で活躍出来ていない選手を野村監督がうまく使って戦力にする。

    いわゆる「野村再生工場」。

    面白かったな。

    野球の道は虹色に輝く
    管理人:kanpabelle

    1 砂漠のマスカレード ★ :2020/03/08(日) 16:26:35

    2005年の秋だったと思う。楽天の次期監督就任が決まった野村克也さんから、電話がかかってきた。ある選手の特徴を知りたいと言う。「俊足と巧打。監督が好きなタイプだと思います」。聞かれたのだから仕方ない。素人なりに答えた。次に会ったのは交流戦のとき。僕の顔を見るなり、野村監督はぼやきもせずにこう言った。

    「なんで中日はあんな選手をくれたんや…」。その選手が楽天の鉄平打撃コーチだった。監督と同じ06年に移籍。すぐに試合で使っていた。

     「今の僕があるのは、見いだしてくれたからです。(移籍)1年目に僕は9打席連続三振したんです。20打席以上ノーヒットもあった。でも、変わらず使ってもらえたから3割打てました。選手って、使ってもらえなければ何もできない。すごく我慢してくださったと思います」

     野村語録の第1条は「固定観念は悪。先入観は罪」だ。数々の再生工場の傑作は、この考えから生まれている。鉄平の場合は再生ではないが開発。当時の中日は外野の層が厚かった。「うちでは無理だ」。育ってから使うのが中日で、使いながら育てるのが楽天だった。金銭で譲り受けた鉄平は、野村監督には少し磨くだけで光る宝石にしか見えなかった。

     「すべてのプレーには相手がいる。そこには意図や狙いが必ずある。だから自分も打つ、守る、走る、捕るに必ず意図をもって取り組め」

     鉄平コーチが野村監督から最初に教わり、今も大切にしている言葉だ。退任した09年には打率3割2分7厘で首位打者を獲得し、恩返しをすることができた。大恩人は天国から鉄平コーチの指導を見ている。

     「うちの若い選手はいいものをもっているんです。飛躍するきっかけをつくれれば…」。責任ある立場にいる人間は、忘れてはいけない。固定観念は悪。先入観は罪。第2、第3の鉄平は、どんな組織にもきっといるはずだ。 (渋谷真)

    3/8(日) 12:10配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200308-00010018-chuspo-base


    【【野球】元楽天・鉄平の移籍「何で中日はあんな選手をくれたんや…」野村克也の“鉄平開発秘話” 移籍1年目で3割打てたワケ】の続きを読む


    野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。愛称は「ノムさん」「ムース」。血液型はB型。
    201キロバイト (31,352 語) - 2020年2月25日 (火) 16:36



    (出典 ddnavi.com)



    1 鉄チーズ烏 ★ :2020/02/27(木) 18:50:31.71

    2020年02月27日 17:16野球
    https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/02/27/kiji/20200227s00001173248000c.html

    (出典 www.sponichi.co.jp)


     3月16日に予定されていた故野村克也氏(享年84)の本葬儀が新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期されることが決定。野村氏の息子で、楽天1軍作戦コーチの克則氏(46)は「何かあってからでは遅い。もし何かあったら親父の顔に泥を塗ってしまう」と心境を明かした。

     この日は仙台市内でチーム練習を指導した克則氏は「こんな状況なので仕方ない。シーズンオフに日程を考えてあらためてやりたい」と、葬儀・お別れ会は今後再検討する方針を明かした。


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    野村 沙知代(のむら さちよ、1932年(昭和7年)3月26日 - 2017年(平成29年)12月8日)は、日本のタレント。元プロ野球選手・プロ野球監督である野村克也の妻として知られる。 出生名は伊東 芳枝(いとう よしえ)であり、沙知代に改名したのは1976年だが、本記事では便宜上、改名前の事項についても「沙知代」と表記する。
    41キロバイト (6,667 語) - 2020年2月17日 (月) 02:16



    (出典 bunshun.ismcdn.jp)



    1 砂漠のマスカレード ★ :2020/02/23(日) 09:34:18

    【名将・野村克也 ボヤキの内幕】最終回

    初めて沙知代夫人と会ったのは1995年、神宮の室内練習場だった。彼女は港東ムースというリトルリーグのオーナーを務めていた。

    野村監督は時間があれば顔を出す。連れだってリトルの練習を見ていたときのことだった。

    沙知代さんが「ちょっと」と保護者のひとりを呼んで、こう言った。

    「あのひとに言っといて。子どもをぶつな、って。でなきゃクビにする。子どもをぶっていいのはあたしだけなんだから」

    選手を殴ったコーチが許せなかったのだ。

    遅れてきた息子の野村克則氏が隣に座った。当時、明大の4年生。11月のドラフトでヤクルトから3巡目指名、プロ入りが決まっていた。その克則氏に、つい心構えなどを話した。
    父親が偉大だから、などとアドバイスしたのだが、話の途中で黙って消えた。しばらくして両親も消えた。

    ■「あなた、息子に何言ったの?」

    練習場の外へ呼び出されて沙知代さんに言われた。

    「あなた、息子に何言ったの?」

    克則氏は、私に苦言を呈されたと受け止めたらしい。監督は「あの子は優しい子やから」と言ったが、母親は動物的な感覚で息子に愛情を抱いている、と思った。

    ヤクルトの監督を辞めた後、監督に電話した。お手伝いさんが伝言して、自宅へ電話が来たのは午前3時すぎだった。

    「野村ですけど、林さん何のご用? ちょっと出かけてたのよ」

    沙知代さんだった。用件は監督への本紙評論家要請で、後日、正式に書面を送る、と決めたのも沙知代さんだった。

    ■自分にない強さ

    沙知代さんはすべてを仕切った。オーナーなんだから私の好きなようにやる、母親だから息子をかばう。亭主を動*のは私の役目。女王のように振る舞って、監督とは対極にいる人だった。
    テレビに出るようになって言動は過激さを増し、経歴詐称、脱税という勇み足まで踏む始末だった。

    しかし監督は、それを「自分にはない強さ」と見ていたように思う。

    野村監督はコンプレックスの強い人だった。自分にはないというコンプレックスが、強ければ強いほど成功へ近づくことを知っていた。

    野球で成功するのに必要だったコンプレックスを野村監督、人生の伴侶にも求めたのではなかったか、と思う。

    「野球はアタマでやる」という理論派の人が、その昔「女のために野球を捨てる」と覚悟したほど、沙知代さんは、野村克也にとって唯一無二の存在だったのだ。

    「対照的でしたけど、いいコンビだったと思います」と克則氏も言った。

    時計の振り子が等間隔で振れるように、ふたりは人生の時を刻んだ。

    「*のも悪くないよ。サッチーさんに会えるんだから」と、監督の言葉が聞こえるようだ。 =おわり

    (林壮行/元 日刊ゲンダイ運動部長)

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200223-00000010-nkgendai-base
    2/23(日) 9:26配信


    【【野球】なぜノムさんはサッチーを?球界随一の理論派がなぜ一生の伴侶に沙知代夫人を選んだのか】の続きを読む


    広岡達朗、キャンプに参加…わいた東京六大学への興味 ^ 巨人OB広岡達朗氏「個人的には広島が勝てばいいと思います」 ^ 巨人OB・広岡達郎氏 高橋由伸監督擁立に「軽率で言語道断」 ^ a b c d e #レジェンド、【ありがとう八十年(45)】広岡達
    135キロバイト (19,839 語) - 2020年2月21日 (金) 18:18



    (出典 bunshun.ismcdn.jp)





    1 砂漠のマスカレード ★ :2020/02/21(金) 12:33:04.62

    私と少し考えが違うのは――

    野村克也が亡くなった。

    野村という男はもともと良い素材を持っていた。
    それを見抜いたのが南海・鶴岡一人監督だった。こいつをリーダーにしなければいけないとの一心で帝王学を叩き込んだ。
    そして一人前に育て上げた。“答え”が出る前に野村の可能性を看破。鶴岡さんの慧眼はすごかった。

    鶴岡さんに厳しく鍛えられながら野村は発奮し、戦後初の三冠王になった。
    三冠王というのはセンスがなければ獲れない。
    野村が優れていたのは次の点だ。
    苦手なコースに来たカーブは平然と見送る。
    それを見た投手がタカをくくって甘いコースへ同じカーブを投げると、待ってましたとばかりに仕留めてしまう。
    それを受け継いだのが野村の薫陶を受けた柏原純一(元南海ほか)だった

    捕手としては、必ずしも肩は強くなかった。盗塁は走られ放題も同然。そこで、ささやき戦術で打者の集中力を殺ぐなど自身の弱点を補う術を研究したのが野村だった。配球にも長けていた。
    同じ捕手の森祇晶は現役時代(巨人)に日本シリーズの対戦相手が南海以外の場合は、プライベートで付き合いがあった野村の自宅を訪れて、パ・リーグ優勝チームの情報収集をしていたほどだ。

    野村の野球理論は間違ってはいない。
    「野球とは頭のスポーツである」を持論にしていた。ミーティングにも長時間かけた。
    私が野村の考えと少し違うのは、理論がどんなに正しくても、それを頭に叩き込むだけでは足りないということだ。
    頭がよくて野球に勝てるのなら、東京六大学で東大がもっと勝っていけなければおかしい。つまり、正しい理論を体で覚え込ませるべきなのだ。
    いまの若い人は根気がなくなった。だが、指導者は答えが出るまで手取り足取り丁寧に教えるべきだ。

    野村の男気を感じさせるエピソードも紹介しよう。私が監督時代に、球審の判定に抗議したことがあった。
    当時は、ユニフォームのパンツの裾をふくらはぎまで下げてストッキング細い部分しか見せない着こなしが主流になっていた。
    私はといえばパンツをヒザ下で折り返す昔ながらのスタイル。その姿を見た相手チームの選手たちが私をヤジったときだ。
    相手ベンチにいた野村はヤジを飛ばした味方の選手を「そんな失礼なことを言うな」と一喝した。

    評論家・草柳大蔵との出会いで

    晩年は著書を何冊も出していたように、野村は言葉を武器にしていた。
    しかし、彼は先天的に言葉を持っていたわけではない。私が知る野村はむしろ喋れなかった。
    そんな野村を変えたのが評論家・草柳大蔵との出会いだ。
    野村は草柳の著作を読み、最初はその受け売りだったかもしれない。
    しかし、読書こそ自分の言葉を獲得する最大の手段であることを知った野村は、草柳以外にも多くの本を読むことで、
    新聞記者が泣いて喜ぶような名コピーライターになっていった。その代表作が「マー君、神の子、不思議な子」だろう。

    人間は生まれたら*。それが早いか遅いかだけだ。桜と一緒。
    どうせ散るなら生きているうちに世のため人のために尽くせばいい。
    人に喜んでもらう。それが本当の幸せだ。野村の生涯は幸せだっただろうか。その答えは本人にしか分からない。

    『週刊ベースボール』2020年3月2日号(2月19日発売)より

    ●廣岡達朗(ひろおか・たつろう)
    1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。
    広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。
    82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退団。92年野球殿堂入り。


    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200221-00000003-baseballo-base
    2/21(金) 11:01配信


    (出典 d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net)

    https://cdn.findfriends.jp/img.sp.baseball/show_img.php


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    野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。愛称は「ノムさん」「ムース」。血液型はB型。
    201キロバイト (31,326 語) - 2020年2月21日 (金) 12:30



    (出典 news.1242.com)



    1 牛丼 ★ :2020/02/21(金) 17:37:51.24

    「こんな老兵に、聞くことなんてあるのか?」
     野村克也氏(享年84)へのインタビューは、いつもこの言葉から始まった。

     本誌が初めて野村氏に取材する機会に恵まれたのは、2013年9月のこと。以来、2019年10月までに、その回数は20回以上に及んだ。球界の将来を憂うがゆえに、批判は辛辣。取材中、話が脱線すると、“プロ野球をダメにした男たち” への悪態をつく。

    ●原辰徳、高橋由伸

     もっとも名前が挙がったのが、巨人・原辰徳監督だ。

    「名将? まさか。彼はエリート然とした “お坊ちゃん”。あの成績は、(巨人の)財力と組織力のおかげ。原に、『監督論』を聞いてみたいね。

     彼がNHKの評論家時代に、カル・リプケンをスタジオに迎えたことがあった。そこで、いきなり『シー・ユー・アゲイン(また会いましょう)』と言っちゃった。有働由美子アナに『(英語での)挨拶ぐらい教えといてやれ』と言ったら、『教えたんですが』と笑っていたよ。

     試合後の談話を聞けばいい。とにかくウケを狙おうと、色気が悶々としている。逆に、記者とほとんど話をしないのが、(前巨人監督の)高橋由伸。慶應大出身の、“ボンボン監督” らしいわ。

     俺は昔から『監督というのは、広報も兼ねている』と言ってきた。だから、見出しになるようなことを言ったし、選手評も語った。新聞を使って選手に刺激を与えるわけだ。

     2人からは監督としての思想、哲学が感じられない。組織はリーダーの力量以上には伸びないんだから」

    ●星野仙一、田宮謙次郎

     故・星野仙一氏を語る口ぶりは、辛辣だった。野村氏が阪神、楽天の監督をやめると、あとを継いだのが星野氏。そして星野氏は、その2つのチームを優勝に導いている。

    「星野は、阪神でも楽天でも『 “野村の遺産” で優勝した』と言われて頭にきていたはず。

     楽天内部の人間に聞いたんだけど、星野が(野村氏の後に)ブラウン監督の1年を挟んで監督に就いたのは、『いっぺん成績が下がったあとに、監督になりたい』と、頼んだからだというんだ。俺は2位でやめたから、星野が評価されるには優勝しかないし、ダメなら星野の評価が下がる。そこまで計算してたわけだ。

     権力者に取り入るのがうまい “ジジ*” なんてあだ名があったけど、俺にはマネできないよ」

     阪神については、「監督を引き受けたのは、野球人生最大の汚点」とまで言い切った。

    「ミーティングをやっても、選手は時計ばかり気にしている。このチームをダメにしているのは、OB連中。キャンプに激励と称して来るんだけど、選手を夜の街に連れ回すのが目的なんだ。

     田宮謙次郎OB会会長(当時)に『迷惑だ』と言ったら、それ以来、俺のところに来なくなった」
    続きます
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200221-00010002-flash-peo


    【【野球】野村克也が、死ぬまで嫌った8人の男たち…原、星野、岩隈などなど】の続きを読む

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