【プロ野球】二岡から坂本へ…美しすぎる世代交代まとめ
長年活躍したプロ野球の名選手であっても、いずれ加齢により衰える時は来ます。チーム力を維持し続けるためには、うまく世代交代していく必要があるのですね。
今回は歴代のプロ野球の中でも、美しい世代交代について紹介します。
二岡智宏 坂本勇人(読売ジャイアンツ遊撃手)
最初に紹介するのは二岡智宏 坂本勇人の両選手です。いずれも球界の盟主、読売ジャイアンツの守備の花形ポジション、ショートを長年に渡り守った選手ですよ。二岡智宏選手は近畿大学からドラフト1位でジャイアンツに入団、ルーキーイヤーの1999年から126試合に出場し規定打席にも到達する活躍を見せました。守っては遊撃手として120試合に出場。以降二岡智宏選手は2007年シーズンまで、2001年(80試合)、2004年(91試合)以外の全ての年で100試合以上遊撃手を務めましたよ。2005年から2007年まではそれぞれ139試合、144試合、139試合に出場するフル回転っぷりでした。
遊撃手のNPB記録を坂本勇人が次々更新
2006年に光星学院高等学校からドラフト1位でジャイアンツに入団した坂本勇人選手は、プロ二年目に早くも開幕スタメンを掴みます。この時のポジションはセカンド、ショートを守っていたのは二岡智宏選手でしたが、その二岡智宏選手が開幕戦で故障、坂本勇人選手が代わりに遊撃手を務めることとなります。結果的に二岡智宏選手が故障している間にショートのポジションを我が物とした坂本勇人選手、以降長年にわたりジャイアンツのショートを守り続け、出場試合、刺殺、捕殺、併殺といった数が歴代NPB遊撃手の中でも最多の数字となっています。とはいえ、2022年、2023年は出場試合数を減らした坂本勇人選手、ジャイアンツは久しぶりにショートの世代交代に苦戦するかもしれませんね。
村田真一 阿部慎之助(読売ジャイアンツ捕手)
続いて紹介するのは、同じくジャイアンツから、捕手の世代交代です。1981年、滝川高等学校からドラフト5位で入団した村田真一選手は、1990年に84試合出場すると、以降ジャイアンツの正捕手的立ち位置となりました。決して絶対的な存在ではなかったかもしれませんが、1990年にベストナイン、1994年と1996年に最優秀バッテリー賞、2000年には日本シリーズ優秀選手賞を獲得し、オールスターゲームにも二度出場した名選手でしたよ。
監督が教育係に任命
そんな折、2000年のドラフトで中央大学から黄金ドラ1、阿部慎之助選手がジャイアンツに入団します。村田真一選手は当時30代後半、チームのためにも後進となる正捕手の育成は急務だったことから、当時の監督であった長嶋茂雄さんは村田真一選手に阿部慎之助選手の「教育係」のような役割を求めました。結果、阿部慎之助選手はルーキーイヤーの2001年から127試合に出場、村田真一選手は前年の約半分の54試合止まりとなりました。同年オフ、村田真一選手は現役を引退し、一軍バッテリーコーチへ転身。監督が推し進めた、覚悟を感じる世代交代劇でしたね。
高谷裕亮 甲斐拓也(福岡ソフトバンクホークス捕手)
最後に紹介するのは、福岡ソフトバンクホークスの捕手の世代交代です。ホークスは絶対的正捕手、城島健司選手が2005年のオフにメジャーリーグへ挑戦してから、長らく後任の育成などに苦労しました。田上秀則選手、細川亨選手、鶴岡慎也選手など他球団の捕手を積極的に獲得してしのいできましたが、なかなか絶対的レギュラーは誕生せず。高谷裕亮選手は白鴎大学から2006年の大学生・社会人ドラフト3位でホークスに入団、城島健司選手退団後長らく第二、第三捕手としてチームを支えてきた選手でした。ちなみに、出場試合数のキャリアハイは2015年の93試合ですよ。
甲斐拓也の飛躍に欠かせない存在だった高谷裕亮
楊志館高等学校から2010年育成ドラフト6位でホークスに入団した甲斐拓也選手は、2016年のシーズン終盤に遂に一軍で二桁試合に出場。2017年からは主力選手として活躍するようになります。2017年は、甲斐拓也選手が103試合257打席、高谷裕亮選手が93試合192打席に出場、以降甲斐拓也選手の出場機会が増えていく一方で、高谷裕亮選手は「抑え捕手」として試合終盤マスクを被るという機会が多くありましたよ。育成から日本の正捕手へと成長した甲斐拓也選手、その飛躍の裏には、高谷裕亮選手の存在、そしてホークスが丁寧に推し進めていった世代交代策があったのですね。
最後に
今回はプロ野球の美しすぎる世代交代について紹介しました。
キレイな世代交代ができるということは簡単なことではありません。時には先の選手の故障など、歓迎できない出来事が世代交代のキーになることもあるのですね。